伊弉諾命が、黄泉の国から帰ってきて、穢れを払うため川で禊をします。
左眼を洗って生まれたのが天照、
鼻を洗って生まれたのが素戔嗚、
そして右眼を洗って生まれたのが月読です。
因みに
日本古来の陰陽五行の考えで捉えると
左、というのは「日が足りる」と捉えられ、陽の気。太陽、男性性に繋がります。
右は「水が極まる」で、隠の気。月、女性性に繋がります。
月読は男性神ですが、月また、「夜の食国」を統べる神様です。
月読はアマテラスとスサノオという二人の華やかすぎる兄弟に比べて、あまりにも存在感がなさすぎる!
素戔嗚は、若い頃は髭が胸まで伸びるまでお母さんが恋しくて泣いている甘えんぼうで、馬の皮を剥いで投げ込んじゃうくらいやんちゃで、でもモンスターを倒した、日本神話のヒーロー!娘の結婚相手大国主には、試練を与えながらも最後は認める、人間としての成長も見られるところがなんとも素敵な人間臭い神様です。
天照はそんな弟が嫌になって、岩屋に引きこもってみたけど、外でみんな楽しそうにしてるからついつい覗いてみてみたら、美しい神様がいてびっくり!って、鏡に映った自分だし、
で外に出された、やっぱり可愛らしいともいえるエピソードが人間味を感じます。
一方の月読は。ほぼエピソードなし。
唯一位であるのが保食神のところにいったら、ご馳走だといって口から出てきたものを食べさせられそうになって、怒って保食神を殺して、そのせいで天照に嫌われて、追い出されました、という事。
祭っている神社も相当少ないそう。
存在感無さすぎて可哀想。
月読がこんなに出てこない訳は諸説唱えられているようです。
今日見た動画で見た説がとても気に入り、納得しましたので紹介します。
それは、
ちょうど、仏教が日本に入ってきて、朝廷では仏教促進派と、神道派に分かれて争っていたそう。
天武天皇は、ちょうどそのバランスをうまく取った天皇だったそうなのです。
取り入れ方として、現在もそうですが、冠婚葬祭の「葬」は仏教担当、「婚」は神道担当と、分担しつつ、神仏集合させました。
「葬」死後の世界は仏教なので、閻魔様がトップとなりました。
一方神道の月読命が統べる夜、「黄泉ヨミ」=死の世界は役割が被ってしまうので、遠慮してもらって、仏教に仕事を譲ってもらうしかなかった、という事です。
ここをしっかり分けておかないと、当時の民衆統率が取れないので、致し方なかった、と言うわけです。
仏教との兼ね合い!
なるほどなあ、と思いました。
それなら仕方がなかったのかなあ。
神道が全部消されて、仏教に取られるよりは良かったわけで。
「神仏習合」については、こんなに黎明期からMIXされているイメージがなかったので意外でした。
明治にひっぺがされるまで、長く長く日本に根付いた神仏習合の教え。
今でも分かれ切ってはいないと思いますが、繋がったままの方が、日本人の精神性を上げるのに良かったのではないかな、となんとなく感じてしまうのでした。